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親子で人生を楽しむ為の海外移住ガイド

めうみプロフィール その2

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プロフィール その1

からの続き・・・

▼高1入学式で辞めたいと

高1の入学式で、田舎の中学と文化が違いすぎて、カルチャーショック(T_T)
1日で学校が嫌いになり辞めたくなってしまった私。

めうみ)辞めたい!
と母に泣きついたところ

母)交換留学制度が学校にあるのだからそれをつかって留学してみたら?
もともと英語は嫌いじゃなかったし、
それもありかなと
考えるようになったのである。
ちょうど通っていた高校の理事長が

理事長)これからは国際化社会の時代。グローバルな社会に対応出来る生徒を育てよう!
ということで、
積極的に海外留学を支援していた。
実はこの理事長かなりのやり手。

麻布中高→東大を経て、大手銀行に就職。
数年後、退職され、某学校の理事に。
斬新な考えをお持ちで上手に学校経営をされ教育分野でかなり活躍されている。

私の母校も
私が卒業するくらいに校舎を建て替えて、
今は中高一貫校になり、かなりの進学校で名が通っている。

私が通学中(20年以上前)から、交換留学生を受け入れたり、
週休二日制を取り入れたり
その当時ではかなり進んだ教育方針をとっていた。
さらに、交換留学を推奨していて、1年の留学なら単位を認めてくれていたのだ。

当時、私立は、留学すると留年する形をとっているところがほとんどだった。
留年しないシステムを取り入れてくれていたので、なおさらフットワーク軽く
留学ができるシステムになっていた。
でも、実際に留学するのは、学年300名の学生に対して、わずか10名ほど。
つまり3%ほど・・・。
この頃から留学生が増えたと言ってもやはりまだまだ少なかった。

実際、留学すると言ったら、担任からは反対されたのだ。

と言うのは、
留学すると学校の勉強が遅れてしまう。
当時、私は自分の偏差値より10も低いところの学校に通っていたので、自然と、成績は常にトップクラス。
自分で言うのも何だが^^;
学校では、期待のホープだったのだ。

高校受験で失敗したので、私も大学は、希望大学に行きたいと思っていたので、結構勉強は頑張っていた。

塾も大手予備校に高1から通いだし、
「東大早慶クラス」なんてのをいっちょまえに受けていたのだから。

だから、学校としては、3年間しっかり勉強して、
いわゆる一流大学に合格して欲しいという思いが強かったようだ。

でも、担任に相談する前に自分で申し込んで
しまったので、時すでに遅しだったが。

あとで知ったのだが、
この時の留学も親戚の反対に合っている^^;

まぁジョホールバルに親子留学するときも周りの反対の声はあったが、
この当時から、留学ということに対しては賛否両論なのだろう・・・。

さて、話が少しそれたが、
私の場合は、学校に行きたくないという理由から、
留学することを決意したのであまり例がないそう。

思い立ったら吉日ということで、
すぐに願書を出し、留学試験を受けた。

留学エージェントの形だけの試験なので特に問題なくパスした!
高校1年生の時に決意し、2年生の夏休みから留学ということに決まった。

ところが、留学を決意して、試験を受けた時は、行く気まんまんだったのだが、
高校生活にも慣れていき、高2になったら、
この学校が結構楽しくなってしまい、留学への気持ちが少しトーンダウンしていた・・・^^;

でも、すでに申し込みをしてしまっていたので、後戻りでもできなかった。
それでは親にも申し訳ないこともあり、
16歳、高2の時にこの気持ちを振り切って、
アメリカに単身留学したのであった。
10ヶ月の留学生活。

この時の10ヶ月の経験がその後の私の性格の土台を作ってくれた。

もう今から約20年も前のことだが、その時のことは、今でも鮮明に覚えている。

16歳まで海外に出たことがなかった私。
初海外がアメリカへの留学であった。
不安と期待で入り混じった気持ち。
今でもあの時の複雑な気持ちは全く忘れていない。

高校時代の親友から成田空港での見送りの時に手紙をもらい、
飛行機の中で読んで号泣。

離れるのは寂しいけど頑張ってね
と温かい言葉が書いてあった。

その親友とは、毎日文通をしていた。
彼女からの手紙が楽しみで頻繁にやり取りしていたっけ・・・。
懐かしい。

でも、留学生活も一筋縄ではいかず・・・

たくさんの困難があった。

 

まずホストファミリー

交換留学の場合、ホストファミリーの自宅に
滞在するのだが、このホストファミリーが
私は、なかなか決まらなかったのである(;_;)

周りの友達はどんどん決まっていくのに
自分だけがなかなか決まらない。

これは辛かった。

書類選考で落とされているような気分。

この頃の私は自分に自信がなく暗い印象があった。
だから、なかなかホストファミリーが見つからなかったのだろう。

 

残り物には福があると周りからは励まされていたが、内心穏やかでない日が続いていた(T_T)
ますます自分に自身がなくなっていく気持ちにもなり・・・。
交換留学プログラムでは、アメリカの高校が始まる8月末に合わせての出発なのだが、
英語力が不安だったのと、少しでも早く現地に慣れたいということで最初に3週間の語学研修をうけることにし、
通常より早い、1994年の7月28日に日本を発った。

話が変わるが、実は7月28日というのは、
偶然にも私が2012年にジョホールバルに移住をした日と同じ(驚)!

2012年の7月28日の出国直前に空港で母が教えてくれ、そこで初めて分かったのだ。
なんという偶然なのだろう・・・。

話は戻り、実は日本を発つとき、周りのみんなは
すでにホストファミリーが決まっていた。
決まっていないのは、
私だけ・・・(;_;)

本当に不安で仕方がない出発だった。

やっとホストファミリーが決まったのは、語学研修の最中。

通常は渡航前の日本で決まるのに私は、まさかのアメリカに到着後に。
本当にギリギリでの決定だったのだ(T_T)

語学研修中も決まるまでは、気にしないようにしても
頭の片隅から離れず、とても不安な日々を過ごしていた。

だから決まった時は本当に嬉しかった!
自信を失いかけていたから・・・。

交換留学で一番の心配事は、ホストファミリーとの人間関係。

留学中に文化や習慣の違いでトラブルにあったり、
チェンジする学生も結構いる。
でも私は、順風満帆な人生ではないが、人には恵まれていた。

ギリギリで決まったが、私とホストファミリーとの相性は抜群で、
他の交換留学のメンバーの誰よりも一番良いファミリーに恵まれた。

早く決まっていた子で途中ホストファミリーとうまくいかずチェンジしたり、
家を追い出されたりした子もいた・・・。
私の所にはホストシスター(妹)が一人いた。

私が16歳のとき、彼女は12歳。

とても頭のいい子で、2年も学年を飛び級していた。
読書が大好きなので、語彙力があり、沢山の英語を教えてくれた。

ホストパパもママも私のことを
本当の娘のように可愛がってくれた。

今でもこの時のホストファミリーとは連絡をとっている。
ただ、悲しいことに現在このファミリーは、家族がバラバラになっている。

いわゆる家庭崩壊だ。

夫婦は離婚していないが、破綻。
(私がいた時から確かに喧嘩は激しかったが、普段は仲の良い夫婦で、アメリカでは珍しく離婚歴がない夫婦だったのに・・・。)
その子どもも親と縁を切ってしまった。
娘がレズビアンだったのだが、それをカミング・アウトしたら
母娘の関係が壊れたそうだ・・・。

私のアメリカ留学生活は決して順風満帆なものではなかった。

英語の成績は悪くなかったので、問題なくやっていけるだろうと思っていた私。

しかし、発音が悪すぎて(恥)全く通じず・・・(T_T)

さらに相手が何を言っているかも殆ど分からず、
最初の数ヶ月は、こんなはずでは・・・と意気消沈していた。

恥ずかしながら学校初日の授業で、
「May I use my dictionary?」
訳)辞書をつかってもいいですか?
と言うのさえ通じなかった・・・。

ある時は、「この子は英語ができないから」と目の前で悪口を言われたこともあった。

その頃は、だいぶヒアリング力はついていたので、おもいっきり何を言っているか理解できていたのだが^^;

日本人だからということでバカにされたこともあった。

さらに、極めつけがスロバキアからの留学生を自宅に招待したのだが
彼女の英語はとても上手。

うちのホストファミリーも悪気なく、
「来たばかりなのにあたたは、英語がとても上手ね!」
と私の目の前で言われ、比較された思いでとてもショックを受けたのである。
まぁ事実なので仕方がないのだが、明らかに私と比較して言っていることが分かったので切なかった。

この日はなかなか英語が上達せずちょうど落ち込んでいる時だったので、追い打ちをかける感じになってしまい、
悔しくて、涙がでた。

でもこういうことがあったからこそ、
1日も早く英語を話せるようになりたい!と思い、常に英語で考えるようにし、頑張ることができた。

この悔しさをバネに強くなれた!今となっては、いい経験だ。

当時、私は本当におとなしく、人見知りも激しかったが、
アメリカで人見知りをしていてはしてはうまくやっていけない。

海外では
「自分はここにいる」
と主張しないと全然相手にしてもらえないので、自己アピールを頑張ってするように努力した。

16歳の時のこの経験は、私にとって深く衝撃を与え、ずいぶんと性格が変わった。
自己主張をしないと生きていけないし、英語力をつけるためにも
極力日本人の友だちは作らないようにした。

このように色々頑張れたのは、実はもう一つ理由があった。

それは留学をする前に、交換留学をしたことがある先輩を学校から紹介してもらったことだ。

その先輩たちに直接コンタクトをとり、大学生であった先輩に直接会いに行き、色々質問をさせていただいた。

留学にあたって、今できることや、気を付けることなど、
更にはホストファミリーとの付き合い方、
帰国後のことなど、
たくさんのアドバイスを受けたのである。

母校の後輩からの連絡だからみなさんとてもやさしく対応してくださり、この時のアドバイスが大変役に立った。

この時に言われて印象的だったのは、

・日本人同士で固まらない
・英語の環境にどっぷり浸かる
・限られた期間なのだから精一杯英語・文化を学ぶ
・積極的に多くのイベントに参加する

などなど、
書くとキリがないが、本などでは決して分からない、大変貴重なお話を聞くことができた。
やはり実際の体験者に話を聞くのが一番だと痛感した。

この時の先輩のアドバイスのお陰でたったの10ヶ月という期間であったが、
他の日本人学生と比べて英語力が身につき、とても実りのあるものになった。

留学したばかりの頃の私は、引っ込み思案で
本当に自己主張ができないおとなしい子だったので、自分を変えたかった。

変わるきっかけが欲しかったのかもしれない。

16歳という多感な時期に、留学できたこと、
これは、私の財産になっている。

16歳という年齢の娘を単身で海外留学させるということは、両親にとって不安で仕方がなかっただろう。

親になった今ならよく分かる。

不安も沢山あった中、費用を何とか工面して留学させてくれた両親に感謝の気持でいっぱいだ。

この留学で得たものはその後の私の人生の土台そのもの。

1年、親元を離れて過ごしたこの経験は本当に自分を強くしてくれた。
ホームシックにもかかったし、英語が全く通じなくて自信喪失にもなった。

しかし、

帰国する頃には、映画もほとんど字幕なしで見れるようになった。
感動したのは英語で夢を見たこと。
これは嬉しかった!

ただ人生なかなかうまくはいかない。

帰国したのは高3の6月中旬。受験真っ只中。

英語はずいぶん上手したので、
TOEFLもさぞ高得点が取れるだろうと思い帰国後すぐに受験したが、
全然高得点は取れなかった・・・。
恥ずかしながら、何と450点(恥)。

私が行きたかった大学のレベルは、550点以上・・・。*1995年当時の出し方の点数です。
また新たに、私の苦難の旅は続くのであった・・・。

つづく・・・。

*続きは

プロフィール その3

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