8Jan
STORY9 新天地の試練
未成年の海外留学にとって最も重要なことは、どんなホストファミリーと出会えるか?なのです。
そこは生活の場であり、人間関係構築の場であり、何より、相手家族は、その国の習慣を教えてくれる、一番身近な外国人なのだから。
ホストファミリーがダメダメだと、一年間の留学は悲惨なものになってしまいます(T_T)
正直、ドキドキです!!
だけど私だけ、出発時にホストファミリーが決まっていなかったのです(T_T)
これは、大事件です。不安で胸が潰れそうでした。
初めての異国、初めて親と離れる生活、それなのに、滞在場所が決まっていないなんて…。
一体どんな家にお世話になるのか、想像すらできません。
ようやく決まったのは、何とアメリカ到着後で、不安から自信を失いかけていた私に、やっと光りが差した瞬間でした。
実は、留学と言うと聞こえはいいけれど、結構な割合でトラブルに巻き込まれているという話を聞いていて、内心震えていました。
国によっては、毎日シャワーを浴びてはいけないとか。
しかも、シャワー時間は5分までとか、日本では信じられないようなルールがあったり、謎の食事が出て来たり、色々な制約があることもしばしば。
私は、最後にホストファミリーが決まったけれど、早々と決まって、意気揚々と暮らし始めても、家を追い出された子もいたし、チェンジさせられた子もいたりして。ほんとに、十人十色、色々あったのです。
昔の人はいいことをおしゃいますね!
「残り物には福がある!」
まさに、その通りでした!おかげ様で私は、本当に人間関係に恵まれて、超がつくほど順風満帆の留学生活でしたから!
しかも、私にはホストシスター(妹)も出来たのです。
私より4歳年下の12歳の少女は、読書が大好きで、語彙が豊富だったから、何と2年も飛び級していました。優秀ですよね!
そして、私にたくさんの言葉を教えてくれました。本当に、感謝しています。
ホストマザーもホストファーザーも良い人たちで、アメリカのパパとママそのもの。
私は、娘のように可愛がってもらって、忘れられない素晴らしい日々を過ごしました。何と、今でも連絡を取っているんですよ!
ちょっと残念なことに、このファミリーは、今、バラバラになっちゃったみたい(涙)仲の良い夫婦だったのに…。
離婚はしていないけれど、今はもう一緒にいないと。
それだけじゃないんです。
何と娘がレズビアンで、それをカミングアウトしたら、母娘が断絶してしまったと。悲しいことです…。
さて、アメリカでの留学生活にお話は移りますね!
正直、英語は得意だったので、結構自信があったんです。余裕でやって行けるとまでは思わなくても、問題なく暮らせるだろうと。
ところが、ネックになったのが、発音でした。
「ショック!!!全く通じない。え~、ウソでしょ?」
しかも、こちらの言葉が通じないだけじゃなくて、相手が何を言っているのかも、さっぱりわからず。
落ち込みまくった数か月…。
今も忘れられない…、学校の初日に勇気を出してしゃべった言葉。
「May I use my dictionary?」
~辞書を使ってもいいですか?
沈黙です。返事がありません。
…え?マジですか?全く通じません。完全に意気消沈(涙)
周囲は、私のことを、どんな目で見ていたのでしょう。
ある時、
「この子、英語出来ないから」
と、面と向かって悪口を言われたり。きっと馬鹿にされていたんだろうなあと思います。
だけど、残念でした(^^)v
数か月たつと、理解出来てしまうのです。英語って本当に慣れだと思います。
もし今、言葉がしゃべれないからと、留学を躊躇している方がいらっしゃったら、私が太鼓判を押します!
絶対に耳が慣れて来たら、理解出来ますからね。大丈夫ですから!ただし、こちらから積極的にしゃべりかけてみて下さいね!
英語はコミュニケーションツールだもの。
留学中には、他にも傷ついたことがありました。それは、スロバキアからの留学生を家に招待した時の事です。
その子はアメリカに来たばかりなのに、とても流暢に英語をしゃべる子で、
「あら~、あなた、凄いわね!まだ来たばかりなのに、こんなに上手におしゃべりできるなんて!」
と、ホストファミリーも驚いていました。
ショックでした。
悪気が無いのはわかっているんです。だけど、比べられた気がして。英語の才能が無いと思われている気がして。
丁度そのころ、ある程度英語が理解できるようになってはいたけれど、そこからの一歩が踏み出せず、落ち込んだり悩んだり、しんどい時期でもあったんです。
だから、余計に心が滅入ってしまったのかもしれません。
「早く、英語をしゃべれるようになりたい。英語で物事を考え、英語で伝えたい。とにかく一日でも早く!」
そこはアメリカ。
誰でも英語で会話するのです。当たり前ですけれど。
幼児だって英語をしゃべります。だけど、私はまだまだ日常会話程度。本当に悔しい。
実は、今からは想像できないかもしれませんが、私は当時、とっても大人しい少女だったんですよ!
だけど、日本のように、語らずとも周囲が理解してくれるなんてこと、絶対にあり得ません。自己主張をしないと潰れて行く国。それがアメリカでした。
「私は、ここよ!ここにいるのよ!」
そうアピールしないと、誰も心を留めてくれません。
16歳の花岡めうみは、考えました。一体、どうしたら英語が上手くなれるのか。
実は、私には渡米前にアドバイスをくれた、母校の先輩の大学生たちがいました。
その方たちも、交換留学の経験がある方々で、
私は積極的に会いに行き、ホストファミリーとの付き合い方や、帰国後の生活など、色々教えて頂いてから、旅立ったのです。
その体験談をもとに、私なりに、留学を成功させる方法4か条が出来ました。
皆さんにも、お教えしますね!
まず、これが一番大事で、案外難しい事。
それは、「日本人同士で固まらない」ってこと。
良くあるパターンですね。せっかく外国に行っても、不安感から日本人だけでつるんでしまうこと。
これは、もったいないです。帰国したら、幾らでも日本人とつるんで、日本語をしゃべることが出来るんですもの。
次に、「英語環境にどっぷり浸かること」
寝ても覚めても「英語、英語、英語」の状態に、自分を追い込むことです。
逃げちゃダメです。
そして、これは私の人生訓でもありますが、
「時間には限りがあるから、今、この時間を大切にする」と言うことです。
つまり、精一杯英語を体験し、その背景にある文化を学ぶのです。
留学生としての期間は10カ月と定められていましたから、思いっきり空気を吸い込むように、英語をお腹の中に貯め込みました。
引っ込み思案だった私にとっては、最後が一番大変ですが、
「積極的にイベントに参加すること」が、
実はとても有効だったのです。
机上の空論だけでは、生きた英語は身に着きません。
どんどん、どんどん、前に出て、積極的な自分を演出していかないと、ただ食べて寝るだけの10か月になってしまいます。
きっと私は、自分が変わるきっかけを探していたんだと思います。
もしも、あの時アメリカに出て行っていなかったら、今も、自分の意見を胸にしまい込む、大人しいままの女性だったような気がします。
もちろん、ジョホールバル移住なんて、思いつきもしなかったでしょう。
留学した方から良く聞くことですが、
「1年英語圏にいれば、字幕スーパー無しで映画が見られるよ」
って。
正に、その通りになりましたよ!
「辞書を使ってもいいですか?」
という言葉さえ通じなかったのに、最後の方は英語で夢を見られるまでに成長していました。
もちろん、ホームシックになったし、自信喪失することも何度もありました。
だけど、大丈夫!語学は、頑張った分だけ見に付くのです!
実は、アメリカに旅立った日は、1994年7月28日で、奇しくも2012年に、ジョホールバルに着いた日と同じでした。
これは、母が教えてくれたことです。私は気づきませんでした。
人生の不思議なめぐり合わせを感じました。そう。運命って、続いて行くんです。
頑張る人を、背中らそっと押してくれるんです。
私が帰国したのは、高3の6月中旬でした。
受験経験のある方にはお分かりだと思いますが、受験生の天王山は夏休みだと言われています。つまり、その直前に帰ってきたわけです。
これって、物凄くリスキーなことですよね。
だって、丸々1年間日本の高校の勉強から離れていたのに、いきなりトップスピードに持って行かないといけないんですから。
確かに、英語はしゃべれるようになっていましたが、コミュニケーションとしての英語と、お勉強の英語は別物なのです。
そのことを痛いほど思い知らされたのは、帰国後すぐに受験したTOEFLでした。ワクワクしながら高得点を確信して受けたのに、何と450点。
ええ~ウソでしょう?(涙)
1995年当時、私が希望していた大学の最低ラインは、550点。残念!遥か及ばず。
またまた、私の前に大きな壁が顕れたわけです。
さあ、どうする!めうみ!ここを突破しないと、希望の大学に行けないじゃないの。また失敗して落ち込むの?それとも頑張るの?
ここから大学までの道のりは、色々な事件のオンパレードです。
新しい苦難の旅路が始まりました。さあ、私はどうやって限界突破をしていくのでしょうか?
続きは、THIRD STAGEに綴って行きますね!
是非、是非、引き続きお読み下さいね!
続きはこちら
関連記事
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。