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親子で人生を楽しむ為の海外移住ガイド

【MY STORY 3】懐かしく切ない日々 リライトby植田みかり

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STORY3 懐かしく切ない日々

 

そもそも、海外で子どもを育ててみたいと思ったのには、深い理由がありました。

それは、私と言う人間が出来上がるまでの幼いころに端を発します。

 

 転勤族の子どもだった私は、どこか自信を持てない、おどおどした大人しい子どもでした。

 

え?今の私からは想像できない?あり得ない?(笑)

 

いえいえ、かつての私は、本当に大人しくて、人目ばかりを気にした子どもだったのです。

 

3月の早生まれで、のほほんとした子どもだった私は、

人懐っこくて、物おじをしない活発な女の子でした。

だけど、そんな陽気な私は、幼稚園時代で終わり、やがて暗黒の小学校時代を迎えます。

 

父の転勤で、広島から東京に移り住んだからです。

 

言葉も環境も違う東京。大都会は地方girlにはそんなに優しくなくて。

バリバリなまっていた私に、上級生女子からは容赦なく、

「マジで何語かわかんない。それって日本語?」

って、バッサリと切り捨てられて・・・。

それまで、人が大好きだったのに、発音1つで馬鹿にされるなんて。

しかも何も悪いことはしていないのに…と、一気に孤独に追い詰められた私。

 

「広島に帰りたい…。でも、もう帰れない。ここで生きて行くしかないんだ」

自分に言い聞かせても、どこにも居場所が見つからない私。ここは東京。地方の風は、無用な囁き。

その後、やっと出来た友だちには、ある日突然無視されたり。

無視ってとてもきついのです。だって存在を認めてもらえないのですから。

「これはいじめだ!」

と気づいた私は、無駄な抵抗だったけど、仕返しをしてみたり…。

だけど、いい事なんか何もないんです。いじめ遭いなんて、最低の行為ですから。

小学校5年生にもなると、子どもとはいえ、多少は知恵がついて来ます。

特に女子はプレ思春期。おませで、厄介な年齢に差し掛かり、個別ないじめから、集団いじめへと転化して行く時期でもありました。私の場合もそうでした。

 

「あ、虫が飛んでるよ」

という合言葉を合図に、一斉に「無視」されたこともあり。

猛烈にショックを受けた私は、泣きながら帰宅したのに、

長女気質だからなのか、親には絶対に迷惑をかけたくなくて、何があったのか言い出せず、ただただ毎日が、辛くて辛くて。

 

 それでも、どうにか学校を嫌いにならないために、必死で考えたのは他クラス仲良しの子と、放課後に一緒に遊ぶこと。

 

小学校卒業まで後2年。

今はただ、耐え忍ぶしかないと思い込み、頭の上を通り過ぎる嵐に、踏ん張って立ち向かっていたら、

無視していた子たちが突然やって来て、何故か

「今までごめんね」

って。

 

 正直、

「私がどれだけ辛かったかわかる?どれだけ傷ついたかわかる?」

そう言いたかったけれど、謝って来た相手を糾弾するほど悪にもなれず。

私は彼女たちを許し、緩やかに人間関係は改善に向かって行ったのでした。

 

 だけど、あの時の記憶が、私の心に大きな爪痕を残していることは、間違いないと思うのです。

だって、今でもこうして書きながら、とても悲しく辛いから…。涙がこみ上げてくるほど、トラウマになっています。

 

 あの時、どうして一斉に無視されたんだろう?

そう考えると、人は横並びで同調するのが正しいという考えが、根幹にあったんじゃないかと思うのです。

 

 例えば、地方からやって来た私は、まるで危険分子みたいです。

だって、言葉も違うし、感覚も違う。いわゆる、同調圧力ってやつが蔓延していたのでしょう。

 

 時代は変わっても、いじめは無くなりません。

 

 あるいじめを経験した人がブログに書いていました。

「狭い世界を抜け出そう。価値観が違ったって、目の色が違ったって、皮膚の色が違ったって、言葉や文化が違ったって、皆、同じ地球人じゃないか!子どものいじめを通して、私は知ったのです。狭い世界観こそが、いじめを助長するのだと」

と。

 

 私も全く同意見です。

いじめは、する側もされる側も不幸です。

色々な価値観があることに、娘たちには早くから気づいて欲しくて、多民族、多宗教のマレーシアの地に飛び立つきっかけとなったのです。

続きはこちら

http://bit.ly/2pRpKVk

 

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